のらりくらりと結婚準備ブログ&食いしん坊な日常。


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カテゴリ:芸術(舞台・絵画など)( 35 )

レオナール・フジタ展@福岡市美術館

レオナール・フジタ展に行ってきました。

私にとっての藤田嗣治は、
07年9月に行った「自画像の証言展」@東京芸術大学美術館が初めてで、しかもそれっきり。
その時は、「あー、藤田嗣治だー…」位の浅い認識。
それでも、どうやら記憶には刻まれていたようで、
本展公開二日目にして、いそいそと出かけてきました。

詳細は浅学にして知りませんが、
藤田嗣治は、フランスで制作活動を行っていた画家。
初期は、「乳白色の肌」と賞賛される女性の裸婦像を中心に描き、
晩年は、フランス国籍を取得、カトリックに改宗し、「レオナール・フジタ」となっています。

さて、本展覧会。
油彩なのに、日本画特有の細い線や、濃淡による質感の表現をしている点などは、
「西洋画と日本画を融合させようとした」と評されており、なるほどなぁと思わされました。
実際に、習作の際には、紙と墨で描いていたりして、実際に出来上がった絵と比較しても、
表現のあり方は双方に通じるものがあり、おもしろかったです。

個人的に心を捉えた作品は、十字架降下の習作。
彩色もされていない絵なのだけれど、細い黒の線で書き込まれたシンプルなキリストの様が、
本当に迫力があって、十字架降下の場面に流れる虚無感を感じました。

そして何より、おもしろく感じたのは、藤田自身の「魂の漂流」。
東京芸大を出て、単身パリに移り、
第一次世界大戦前後の「狂乱の時代」と呼ばれる時代の中、絵画界に躍り出て時代の寵児に。
第二異世界対戦では、従軍画家として絵を描くが、敗戦によって批判の対象に。
そして、帰化、洗礼。
絵画の表現方法の変遷は、
こうした藤田自身の人生と時代背景の両方が反映されているように感じました。

展覧会の終盤に、晩年藤田が過ごしたアトリエや、
最後の仕事である、フランスのランスにある「平和の聖母礼拝堂」の壁画や宗教画が並べられていました。
アトリエは、とてもこじんまりとしていて、自分で絵付けした食器や屏風が使われており、
その中で宗教画を描いていたのだなぁと想像すると、
とても真摯に、純粋に制作に打ち込んでいる藤田の姿が浮かんできました。
想像したその姿は、なんとなく、西洋と東洋の間を漂流し、
疲れ切った魂が漂着した先を見つけたように感じられて、思わず、胸が熱くなってしまいました。

この先に、死を迎えた藤田は、一体何を思っていたのでしょうか。
次に進みたいと思う気持ちなのか、安息なのか。
展覧会を出てから今まで、私自身の関心を捉えています。
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by chihiro_1984_20xx | 2009-02-24 23:42 | 芸術(舞台・絵画など)

アンナ・カレーニナ

14,15日もイベント続き。
14日は研究室の先輩の結婚式@シーホーク。
15日は吹奏の大・わがまま合奏@六本松共用施設。

あまりに毎日忙しかったせいか、心が停止してしまって、
日記を一行書く毎に「疲れた・・・」を連発。
「あー、やばいな」と自覚して、16日は一日ゆっくり過ごしました。

今日は母と舞台「アンナ・カレーニナ」を観劇。

お昼はアクロスの「そじ坊」にてざるそばを。
近くの「パン・ナガタ」にて次の日のパン(とベーグル)を購入しました。

「そじ坊」、杵屋のチェーンのようだけれど、ホスピタリティがすごい!
テーブル全部に目が届いてて、欲しいと思ったときにお茶が出てくるし、そば湯も出てくる。
ざる蕎麦のわさびが生わさびで、自分ですれるのですが、
余ったわさびは袋が置いてあって、持ち帰ることができます。
お蕎麦屋さんだし、夜はもちろん飲めるしね♪
うーん、こんなお蕎麦屋さんっていいなぁ。
東京の会社の近くにもあるし、東京に行っても行こうと思います。

「パン・ナガタ」は、母親オススメのお店。
春日に本店があるパン屋さん。店舗内のパンのどれもが・・・・かわいい!!
まだ食べてないけれど、これは美味しいのは間違いない。明日が楽しみです。


さて、「アンナ・カレーニナ」。もちろん、トルストイ原作。


ロシアの作家L・N・トルストイの小説。

(中略)

物語は、高級官僚カレーニンと結婚して一児の母であるアンナが、兄の浮気によって崩壊しかけたオブローンスキー家へ駆けつけるため、夜汽車でモスクワへ着いた朝、保線工夫の轢死(れきし)事故に際会し、同乗していた青年将校ウローンスキーがその場でエリートぶりを発揮してアンナの気をひくところから始まり、やがて彼との恋に公然と生きる道を選んだアンナが、家庭を追われ、偽善的な宗教界や社交界からはじき出されて、ひたすら孤独な愛に精神を酷使し続けた結果、転進して大土地経営に乗り出したウローンスキーの多忙な資本家的活動になじめず、ついに覚悟の鉄道自殺を遂げる場面で終わる。

この筋(すじ)書きと並行して、農民との共同体的土地経営に腐心するレービンの対照的な恋愛と結婚生活が描かれるが、この心理的にまさしくトルストイ的な主人公の家庭生活にも、実兄の死や未来への安定した経済的展望の喪失から招来される精神的不安は覆いがたく、それはときとしてこの頑丈な男をも自殺への衝動に駆りたてる。
貴族階級の選良たちがたどるこれら2通りのプロットは、その時代の闇(やみ)の深さを死の淵(ふち)からの体験に根ざして写しとっている。しかしながらレービンのプロットは、勤労する農民から、それなくしては生活を維持しえないところの神への信仰を獲得することによって、起死回生の道にたちえたトルストイ自身の転機をもしるしている。

[執筆者:法橋和彦]

(Yahoo!百科事典から転載)

というお話。

・・・ロシア文学、やっぱり重い。
母と二人で観劇後はぐったりしました(笑)

悲劇なので、主人公がどうしようもない破滅への道を選んでいくし、
周囲の登場人物もどうしようもない救いのなさなのですが、
そういう道を選ばざるを得ない人間の姿はかなりリアリティがあって、おもしろかったです。

夫と愛する子どもがいて、安定した暮らしがあって、幸せでも、
それが別の男と恋に落ちない理由にはならない。
「理性」と「恋愛」は背反したもので、時に恋愛は全てを棄てさせてしまう。

それでも、例え男が変わっても、
迎えるのは棄ててきた過去への苦しみと、同じような恋愛の倦怠なのよねぇ。
乗り越えられなければ、絶望に飲み込まれることになり、
どこにも行き場をなくした女は、死を選ぶ。

時代を超えた、「社会の中でする恋愛」の普遍性に共感しつつ、
女として、そのような生き方しかできなかったアンナを哀れみつつ。

示唆的な観劇になりました。


あぁ、私?

もちろん、今手にしている幸せを手放すつもりはないけれど。

それでも、
幸せになろうとも、幸せになれるとも思っても願ってもいないし、
女は生来、子宮に孤独な闇を抱えてるんだろうと思ってる。
男は当てにならない事を言うことができて、いつかは裏切るもので、
女は自分自身すらわからないから、更に信用できない生き物だと思っている。

だから、自分で自分が生きていくために、いつかくる「その日」のために、
永遠に「私が」選ぶ立場で居続けようとだけ、思っています。

運命でも、男でも、「何か」に私の人生を好き勝手されるなんてまっぴらごめんだ。
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by chihiro_1984_20xx | 2009-02-18 22:49 | 芸術(舞台・絵画など)

さんしょう太夫@ももちパレス

前進座による「さんしょう太夫」鑑賞(リンクのwikiは元となった「安寿と厨子王」の筋)。

説経節という、ご詠歌のような語りとうたによる演出で、その点においてはおもしろく見ました。
お話の筋も、登場人物の真に迫る演技で、心を打つ瞬間が何度もありました。

・・・が、辛かった・・・。

厨子王と安寿という国司の子どもが人買いに売られて、
山椒大夫の奴卑として働かされるのですが、その拷問の数々がえぐい。
その厨子王が、国司として国に戻った際に、山椒大夫を裁くのですが、その裁き方がえぐい。
私が弱いだけかも知れませんが、やっぱり、相手を人と思わないやり方は嫌だし、
憎しみを苦しみであがなわせるのも、やっぱり辛いものがあるな、と感じてしまいました。
仕方なかったのかも知れないけれど、それでもやはり。
私は、父・山椒大夫に反発しきれず、憎みきれずの二郎に共感しました。
そして、折々に挟まれる、奴隷仲間や村人たちの人情に、人の世の情けを感じました。

見ながらふと考えていたのは、
「自分の命を捨ててでも守りたい」と思う気持ちは、
どんな理論よりも、どんな責めよりも、何よりも強いのだろうなぁ、ということでした。

姉・安寿は、山椒大夫の元から弟を逃がすために、自分自身の髪の毛を棄て、謀略し、
姉を見捨ててはいけないと泣く厨子王には、「そのような弱い者は弟ではない!」と、
別れの際に、真意からではない言葉を絞り出し、厨子王を逃がしました。
そして、弟を山椒大夫の元から逃がした安寿は、太夫から拷問にかけられ、命を落としても、
決して厨子王の行き場所をいいませんでした。

どんな思いで、安寿は弟を逃がしたのだろう。
どんな思いで、厨子王は京へにげたのだろう。
そこには辛いばかりではない、何か強い、ひたむきな気持ちがあるようでなりませんでした。
血以上の、強い絆。

人は、「なぜ生きるのか」「なぜ死ぬのか」「私とは何か」と、思えば思うほどに、
自分と他人の境目を見いだそうとしてしまう。
周囲から求められるのはアイデンティティや向上心ばかりで、
「私はこうだ」、「私の目標は」「向上!」だなんて、自分の事ばかり考えることが多いけれど、
だけどやっぱり、私は思う。
それだけじゃだめだって。

私は、誰かに生かされている。この世界のシステムの中で生み出された。
だから、この世界のシステムの中で、自分のできる何かをする、ということを考えたい。
誰かのために、生きて、去りたい。
どうにもならない中で、必死に生き抜いた兄弟の話を見て、改めて感じました。

話は壮絶だし、一言でどういう話?なんて言えない要素を沢山秘めているお話だけど、
こういうお話は、決して廃れてはならないと思う。決して。


********

先日はアメリカン・アパレルで人生初めてのベビー服購入!
かわいい・・・!!!
ちょっと興奮。
私は母親になる勇気が色んな意味でないので、まだいいけど。
今度会うお友達のお子さんにプレゼントなのです♪
ものすごく楽しみ。


********

最近はニコニコ動画中毒。
FF動画に涙し、菅野動画に萌えています。
んで、彼氏さんからの電話中に、一旦停止にしていると大抵、
アノ恥ずかしい時報が流れ、割と恥ずかしい。
にしても、作業用BGM、作業できないって。
昨日は、後輩の妹さんの大学の志望理由書を添削していたのに、
動画が気になってしばらく見入ってしまうという失態を犯しました。馬鹿。。。
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by chihiro_1984_20xx | 2008-09-13 14:40 | 芸術(舞台・絵画など)

明石原人(劇団民藝)@ももちパレス

夫婦の愛憎や苦悩と歓喜は、それなりに年輪を重ねてきた者にしか、
本当の実感として沸いてこないものなのかも知れない。

歴史に、時代に翻弄され、運命に翻弄され、
夫に翻弄され、夫も夢に翻弄され、
苦しみの日も、喜びの日も、毎日毎日、
何十年も、ただ、共に歩み続けることの重み。

「明石原人」のお話は、一言で言ってしまえば、「夫婦の物語」でした。

わき上がる感情は、愛おしい、としか言いようがなかったです。

ただ、私は所帯なんて持ったことがないから、
本当に心の奥底から感じることができなかったんだな。
それが、まだまだ私の若さなのでしょう。

もちろん、いいお話、でした。
家族を持つことができるのならば、
おばあちゃんになって、もう一度みたいな、と思います。


あ、でもこの舞台を見てやっぱり思った。
私は、旦那さんが家族を守るために、自分の夢を捨てるようなことにだけはさせたくないって。
旦那さんの夢だけは、私が全力で守ろうって、そう思った。

それを守れるのって、奥さんしかおらんしね。

いや、ただ、私の我が儘なんだろうな。
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by chihiro_1984_20xx | 2008-06-15 21:19 | 芸術(舞台・絵画など)

ミレイ展@北九州市立美術館

父におねだりして車を出してもらい、ミレイ展にいってきました。
北九州市立美術館まで。


幼い頃。いつだったかも忘れたけれど、
テレビでミレイの「オフィーリア」が取り上げられたことがありました。
その絵に私は心奪われ、
死ぬまでに一度は本物がみたいと願っていました。
今日、その絵と逢ってきました。



本物のミレイの作品は、
どれも今にも動きださんばかりに絵が「生きて」いて、
ぞくぞくしました。

オフィーリアは、憧れ、私の夢想の中の姿そのままにそこに在って、
その美しさに、とても昂揚しました。

花の種類や位置、全体の構図、すべてに意味があって、
かつ、沈み行くオフィーリアの、放心と恍惚の表情が浮き立ってきて、
怖ろしいのに、絵の全体に漂う生と死の香りに惹きつけられてやみませんでした。



そして、たまらない!と思ったのは、
ミレイの眼と、腕。つまりセンス。

ミレイは後期に、人、特に女性を多く書いたのだけれど、
相手の表情や仕草から、相手の人間性を引き出すのが抜群に上手かった。
しかも、それを絵画として写し取るだけの腕も秀でていた。

だから、ある女性の肖像画では憂いた表情に片をすくめた自画像を描いたし、
神の道に使える女性には飾り気のない姿と真っ直ぐとしたまなざしを与えたし、
ある女性には、優美さとして若いバラを一輪持たせて、指先の品を醸していた…

どれもが観た人をして、書かれた女性の人間性を想像させるに十分なものでした。



加えて、ミレイのまなざしはいつも、
ある意味とても、理想とナルシシズムに満ちたものであったのではないかな、と
想像してしまいました。
私が何か物事を捉える時に使う「目線の感度」と似ているものを感じたからです。


他人と完全に混じり合わない、
半歩下がった位置から「理性」でもって対象を捉えようとする目線。
そのくせ、捉えた対象物を自分の世界のサンクチュアリに仕立て上げてしまう眼。
なんて傲慢かつ、寂しさと愛情に満ちた目線なんだろうって思います。

寂しさと暖かさ。疎外感と一体感。
感じ、沸き立つ感情はそういった裏腹のものでした。
もしかしたら、一番そこに惹かれているのかもしれません。


動き出しそうなオフィーリアの絵。
たとえ彼女が本当に動き出しても、
観ている「私」は決して手を伸ばしても届かないのがわかる。

一方で、愛情を持って接してきた者たちの肖像画がこちらに投げかけてくる目線は、
今にも「私」に手をさしのべてくれそうなほどに温かく感じる。

絵としては完璧の作品なのだけれども、
投げかけてくる「世界」は、未熟で、ものすごく人間的で、
それがものすごく愛しくて、素晴らしいと感じたのでした。


ミレイ、私と天才画家が似ているなんて言えたものではないけれど、
今回、会いに行ったことで、
自分自身を確認するために寄り添いたいって思える画家さんの一人になりました。


思わず、今回は展覧会の解説集を購入。
堪能しようと思っています。
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by chihiro_1984_20xx | 2008-06-07 19:38 | 芸術(舞台・絵画など)

自画像の証言

日常がまたも始まり、ただいま休憩中。
ぽつぽつ夏にあったことでも残していこうかと思います。

東京へ行く名目は「親戚の結婚式」だったのだけれど、
それよりも個人的に行かなきゃならないなぁと思っていたのは、東京藝術大学でした。

東京藝術大学美術館 「自画像の証言」展に行って参りました。

(詳細は割愛。HPのリンクを参照してください。)

愛媛滞在中、NHKでこの展覧会の番組があっているのをたまたま観て、
折りしも東京滞在中に開催されているとのことで、これは行くしかない、と決行。
途中浅草に寄って「レッサーパンダ事件」のことを考えてみたり、
だだっ広い上野駅で迷ってみたり、
芸大美術館本館の展示のために並んでいる人に惑わされて
自分も30分ばかり並んだりもしましたが、
どうにかこうにか無事、本展覧会が開催されている陳列館にたどり着いたのでした。

上野一帯の博物館、美術館郡、公園の中は、平日休日関係ないって顔で多くのギャラリーが来ていたし(私もその一人か)、一方でホームレスの人たちがたくさん寝っころがってたり、あちこちに一定の間隔でベンチに座り込んでたりした。
そんな光景が通り過ぎる中でたくさん目にされて、常駐し鬱積する喧騒や社会の歪みとか、
そんなのも振り払いがたく私の脳みその周りにまとわりついたけれど、
その一方で、この陳列館はそういった騒がしさとは無縁な顔して、狭い雑木林の中に、のそっ、と存在していて、都会の落差ってものに拍子抜けしてしまいました。
やっぱり売れていない画家の卒業制作とか有名な画家の「自画像」なんて興味ないんですかね、皆さん。本館でやっていた「金刀比羅宮」展はものすごく並んでいたのが印象的でした。(そんなに若冲っていいか??)

まぁいいや。

そうした訳で、足を踏み入れた人のまばらな小さな展示館。
時代を追って並んでいるたくさんの自画像は、その一枚一枚がとても魅力的で、
しかも自分自身の身の丈に「あっている」感じがして、まるで自分に何かを訴えかけてきているかのようで、ぐわんぐわんと揺さぶられるものでした。

どれもが、誰もが、時代が違いこそすれども、
20代そこそこの年齢の頃に描いた「自分自身」。

何を大切に思うのか、何が「自分」なのか、私は誰なのか?
容赦なく襲ってくる試練に、その時の自分自身がどうやって向き合ったのかといった結果がそこには残っていました。

時間がなくっていい加減になっちゃっている作品、作風を超えてんじゃないの?なんて思うぐらいの斬新な(というよりもむしろ不遜?な)色使い、ありえないぐらいかっこつけちゃっている自分や、美化している自分、貶めてしまっている自分、迷って迷ってパテを塗り固めたような自分、完成させすぎて逆に「揺らぎ」を感じてしまうような自分、大切なものを大切に描いている自分、思いが純粋に固まってひとつになっている自分、顔のない自分。

もう、本当に色々なんだけれど、
でも、どれもがあー、そうしちゃいたいのわかる!って思ってしまうようなものばかりで、
あ、皆やっぱり、一緒なんだよなぁなんて、ふと、思わされました。
それが千住博とか青木繁とかもそうなんだよ。やっぱり人間なんだよなぁ。
と、少しほほえましく思ってみたり。

20年後、30年後のことなんて、ましてや明日のことすらわからないという漠然とした不安とか、
どこからくるのかわからない自信とか、使命感だとか、野望だとか。
同じ時代ではなくても、一つの個体として「健康に」時間を重ねていけば、
青年期に対峙する自己には必ずそういうところがあるんでしょう。

でも、そうである一方で、これらの作品を残した先人らが生きた先の時間をも考えた時に、
画家として名を成していたり、教育者になっていたりとそれぞれの人生の足跡を残している人たちもいれば、かと思えば次の年にはこの世にいなかったりする人もいたということを知って、
その漠とした圧力にばかり足をとられる必要はないんだろうという気もしました。

未来はわからんもんだけれど、「それぞれに、それなりに」道がある筈なんだ。
だから、その中で「できる限り全力にがんばる」のが大事なんだと思いました。
なんか、そういうのが私の中では今一番「いいバランス」です。
んで、そういうことを感じれたこの展覧会はやっぱり、「私に丁度良い」のでした。

行ってよかったなぁ、と思えた展覧会でしたが、少し気になる点もありました。
それは、時代ごとに現れてくる「自画像」の性質の変化です。

なにがいい、とかはわからないけれど、
「自画像」には確実に時代が反映されている部分がとても明確でした
(もちろん、芸大側の取捨にも意図があるんでしょうが)。

戦前、戦中、戦後の絵もそれぞれに違っていました。
それよりも気になったのは、
現代に近づけば近づくほどに、
いわゆる自画像、というよりもデザイン性の高い作品が多かったのです。
犬の体に、自分の顔、だとか、抽象的なものだとか。

もちろん、抽象的なものだったりコミック的なものだったりの中にだって「良さ」はあるけれど、
一方で「肉体」と「精神」の関係性が揺らいでいっているような印象を受けました。
抽象画や、空想画は内面の表出としてとても素敵だったけれど、
過去の人たちの絵が持つような肉体的なものからにじみ出てくるような精神とはまた違うもの。
使い捨て、グローバル、タイムレス、ブロードバンド、刹那的な社会の影響は、
肉体すらも「取替え可能」とでも思っている部分があるんじゃないのか、なんて思えたりもして、
少し、気になりました。怖かった、というよりも、気になったの方が正確。

なんだろうなぁ、今後の自画像はどうなっていくんだろうなぁ。
社会の行く末を見つめることは、
人の人生を見つめていくことに他ならないんだろうなぁ。
やっぱり、無関係のものなんかじゃないんだ、と思った次第。


ちなみに・・・私は普通の自画像のほうがすきでした。細部にこそオリジナリティってのが宿るもんじゃないのかね?と思うし。それぞれに背景の色彩や書き込み、筆遣い、自分自身の服装やら表情やらがおもしろくって。引き込まれました。まぁ、ここは余談です。お近くに行かれた際は、院展に惑わされずに、是非。(院展も行きたかったー)
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by chihiro_1984_20xx | 2007-09-10 12:49 | 芸術(舞台・絵画など)

「ことば」以前、でも人間、を知ること。

あれよあれよと資料集めて、用事済ませて、
研究室に帰ってきたら、電気が消えていた。
さ、寂しい・・・。また最後・・・。

疲れたからブログを書きます。
GWの、最後のいっこ前の日。

能古島に行ってきました。
あがた森魚さん、田中泯さんの歌と舞踏の公演があったのです。
場所は、能古島の海の家のような建物、シーサイドカーム。

夕方の博多湾をバックに、
あがたさんの呟くようなMCと歌で始まりました。
セピア色の音楽だなぁ、って思いました。
アンプも必要ないような至近距離だったけれど、
あがたさんの声がところどころ潮騒に消されて、
それでも断片的に聞こえてくる歌詞や、空間が、
居心地がいいのに、どこか寂しいような、懐かしいような気持ちになって、
不思議だな、と思いました。

その中で、つぅ、と現れたのが田中泯さんでした。

田中泯さんの舞踏は、ことばで言い表すことが私にはできません。
どんな、とも、~的だ、とも。
でも、終始、踊っていました。

田中泯さんの存在は、
大気中を縦横無尽に舞っているひとつの自然のような気がしました。
人間が、「ことば」で「踊り」を理論化する以前の、
あるがままの踊り、って気がしました。

しかも、日常の(わたしは日常というよりもセピア色を見たのだけれど)空間を創り上げたあがたさんの歌に飛び込んできて、その歌に取り込まれることなく、でも、壊すことなく、
あくまでも、「舞踏」をしている、という純化された姿を見たような気がしました。






気がした。



今、無理して書いてみた感想が、これです。




色々と、見ながら考えたのです。
この舞の意味は、動きの妙は、意義は?って。

でも、何曲目かではじめた、突然激しい踊りの中に、
自分が小さいころから見ていた、
言葉にも映像にも結実できない、
「夢現の中で見る自分自身の原風景」、を見た気がして、
あぁ、考えるのをいったんやめよう、って思って、
公演中は「ことば」を封じちゃっていたのです。

そしたら、急にいろんなおどりと空間がすーって自分の中に入ってきた。
もしかしたら、自分が空間に解けていたのかもしれない。

細かいことをとって、「ことば」で捕まえようとすることは、
田中泯さんのおどりにおいては、私ではまだ無理だったんです。
それでも、こころは確実に動いて、しかも「受け入れます」と「受け入れたい」と反応した。
そのまま、空間に自分のこころを委ねて、公演をすごしました。
すごく、不思議な、でも、いい、時間だった。

終わったあと、テラスに田中泯さんが出てきてて、
サインを頂いたのと写真を撮ってもらった。
その時に、私は言葉がなくって、
「いい時間をありがとうございました」ってしか伝えられなかった。
それは、ちょっと悔しい。


まだまだ私の内部や、
私を取り巻く世界には「ことば」で捕まえられない「混沌」が
たくさん存在しているんだなぁ。

たくさんの、たくさんの「差異」を持った人間、自然、世界があるんだなぁ。


私は、そんな「ことば」にできない世界もひっくるめて、
ぜーんぶ、ぜーんぶ抱えて、
人間が生きる世界なんだって思いたいな。

自分自身の抱えきれない、
「ことば」にできない感情も、自分自身。


0と1の間だって、世界があるし、それがなきゃ人間じゃない。
田中泯さんのおどりは、私にとっても、多分社会の人が一般的に見る見方で見ても、
たぶん、「間」にあるおどりなんじゃないかな・・・。


ごめんなさい。まとまらないや、やっぱり。
今日は、ことばで掴まえられない世界のお話ってことで。

とにかく、田中泯さんは素敵で、憧れた人にあえて、
しかもお互いのたった一回きりの人生の時間を共有させてもらえて、
私は本当に嬉しかったのでした。
本当に、本当に、また、絶対感じたいな。


P.S.

そうだ。
誰か文献一覧のパソコンでの正確な管理方法を教えてください。
あと、世界史を教えてください・・・。頭が悪い・・・。
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by chihiro_1984_20xx | 2007-05-09 17:40 | 芸術(舞台・絵画など)

ポーラ美術館の印象派コレクション展@福岡市美術館

行ってきました。

印象派にとりたてて大きな興味があるとか、芸術に深い造詣があるというわけではないけれど、
こうして一つの作品として確たる人格を持った一枚一枚の絵と対峙すると、
絵から与えられる力だけじゃなくって、
クリエイティブな才能を持った人に対して、深い尊敬の念と羨望を毎回感じます。

「印象派」と評されるだけあって、そのどれもがぱっと見たものの心を捉えるものではあるけれど、時代の趨勢や画家によって表現方法がぜんぜん違うのに驚かされました。

特に印象の残ったものをいくつか挙げるとすると、
ルノワールの人物画。
抜けるような白磁の肌で描かれた少女の繊細な感じが非常に美しく印象に残ったのですが、
向かいにかけられた裸婦画の
全体的に赤味のさした円熟した姿を見た後にもう一度見直してみると、
少女の白い肌は「処女」の証なのかもしれないと感じられ、
不可侵な神々しさまでむしろ感じさせられました。
そのようなことを考えながら、表題作でもなんでもない「髪飾り」を見ると、
少女が母親らしき女性に髪飾りを飾ってもらっているだけの他愛のない絵なのに、
少女の恍惚とした表情に、背徳感すら漂うエロスを感じずにはいられませんでした。

セザンヌの筆遣いは、父が若かりし頃に描いていた油彩画の調子に良く似ていて、
父の絵を思い出さずにはいられませんでした。
セザンヌの絵は荒削りで伸びやかで、力強くて、暖かくてすきでした。
それにしても父の絵は一体どこに行ったんだろう。


モネの絵を見ながら「空即是色」とふと呟いてしまいました。
モネは構図の採り方が非常に上手だなと感じました。
人の心を掴むためには、中心を決めなくってはならないけれど、
敢えてそれを外したり、遠近法を狂わせたりすることによって、
逆に印象を強いものにしていると感じました。
でも、それだけの効果だけじゃなくって、モネは自然の様子とでも言うのか、
とにかくあるがままを捉えようとしているのだなぁとも感じました。
モネの絵には人の目が通ってそこから描き出されたような「人間臭さ」がないんです。
人工物も、人も描かれているのに、
それらに注目することもなく、特に力を入れて描いているわけでもなく、
ただ、キャンバスの中に在る、といったような感じ。
恐らく、彼の目は「神様」の目なのでしょう。何かを達観したような目。
有名な表題作睡蓮も、何枚も何枚も時間を変えて描いていたのは、
睡蓮自体が重要だったのではなく、睡蓮の湖に映る時間や光や入り込む景色自体が
非常に重要だったのでしょう。
この世界を、あるがまま。
一歩上の世界からこの世界を見渡すような、そんな気分の絵たちです。
「アルジャントゥイユの花咲く堤」の花の配置と色彩に目を奪われ、
「セーヌ河の日没、冬」で中央の夕日を焦点に置いた絵に心打たれました。
後者の絵は妻をなくした後に描いたそうです。
物悲しさと、中央に置かれた真っ赤な夕日に、
消えそうだけれどもそれでも一層輝く、情熱の萌芽を感じずにはいられませんでした。

一方で、ルドンの絵は非常に人間的。
同じ構図を外した絵でも、
こちらではなにやら俗っぽさが感じられて、親しみが持てる感じでした。
「日本風の花瓶」では、能役者の絵が描かれた花瓶に花が生けられているのですが、
その花々が洋花なのに非常にエキゾチックな色彩で描かれていたり、
構図を外した「さまざまなブルー(といった名前。正しくは失念)」では、
妻の裸体の丸みと、風呂桶の丸さ、タイルの青さ、水の青さなどが
どれも現代芸術に通じるところがあって、新しさを感じました。


このほかにも色々な画家さんの絵が公開されていて、
その一枚一枚にさまざまに思索してみたり。
この場所で何で絵を描こうと思ったんだろう?とか、この色味はどうやって出すのだろう、とか、
普通、こういう表現しないよなー、とか、
どう見えたら、こういう風にキャンバスに構図を取れるんだろうとか、
考えるほどにわくわくしました。これこそが醍醐味。

写真ももちろんすきですが、
やはり、自分の手で自然に対峙して生み出したものに、私はよりよく惹かれます。
そういうときに添加されてくる「何か」が、私の心を非常にくすぐります。
「何か」とはきっと、「個性」とか「才能」と言った「人間性」の部分なのでしょう。

印象派の諸氏は色彩の妙によって、
人の心に入り込むのが非常に上手だったと思います。
見た人に大きな衝撃は与えないのだけれども、
何がしかの世界の真実を切り取って見せられたような、
そんな感じの絵が多かったように思います。
そういった絵に囲まれて、多分呟くことになったんでしょう。
これこそ、「空即是色」。






ちなみに、草間弥生のかぼちゃ、ここにもあったよ。
わー、直島で見たときにどっかで見たと思ったわけだ!
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by chihiro_1984_20xx | 2006-04-27 01:08 | 芸術(舞台・絵画など)

坂東玉三郎舞踏公演「藤娘」

某新聞社さんのお手伝いで、今回は坂東玉三郎さんの公演にいってまいりました。
あ、アクロスでした。北九州とか言ってすみません。
集合場所の、博多の会社に行ったらば、
黒塗りのクラウン(社用車・初体験だよ、運転手付き!VIP気分だよ!)に乗せられて、
アクロスに向かわれて、自分の勘違いにようやく気が付きました。おばかです。
しかし、黒塗り・・・さすがや・・・。乗り心地最高。

・・・・・・・・・・さて、
そんなこんなでお手伝いをさせていただき、
その後、前半の公演「藤娘」のみ見せていただきました。

玉三郎さんの素晴らしさは常々周囲から聞いていたのですが、百聞は一見にしかず。
素晴らしいの一言でした。


玉三郎さんは、「完全無欠の女性」を演じることができる唯一の演者だと思います。
それだけ、女性というものを抽象化して、私達に魅せることができる人でした。

(あのアクロスなのに!)朱色の幕がさっと開くと、
舞台の上は、藤が咲き乱れている屏風。
藤色の袴を着けたお囃子衆。
そして、
艶やかな黒地に金糸をふんだんに使った藤の柄のお着物に、
長襦袢に赤を見せて、
黒塗りの傘、朱色の顎紐、長い藤の花の小道具を持って舞う玉三郎さん。

本当に、藤の精がこの世界に舞い降りてきたかのようでした。

その後も、藤色のお着物、菜の花色のお着物、
猩々緋の目の覚めるような赤いお着物(いずれも藤の柄入ってる)とお色直しがあって、
どれもこれもが全て美しくって、まばたきすることも忘れて、呆然と見入ってしまいました。

手の先、足の先まで、緊張感を感じさせつつも、
「はんなり」とした優雅な所作が一貫して見られて感動し、
かと思うと、
童女のようなあどけなさの残る所作で会場を沸かせて感動し、
ただ、格式高いだけじゃない、古典芸能の面白さがしっかりと伝わってきて、
本当に素晴らしいものでした。

それにしても、たった30分舞うだけなのに、どうしてこんなに素晴らしいんだろう。
所作、衣装、表情、オーラ、玉三郎さん自身、
どれをとっても一級品で、
高級チョコレートを一粒口に入れたような馥郁とした満足感が、そこに確実にありました。

はんなり、しっとり、たおやか。
こんな上質な女性は最早、稀な存在なのかもしれないです。

これは夢中になる意味がわかる!
ほかの玉三郎さんの演目もぜひ見てみたい!って思う!
それだけ素敵でした。

この世の中には、こんなに美しいものもあるんだなぁ。


それに、何よりも「藤」の花が大すきになりました。
元から結構すきだったのですが(苗字に藤が入るから、なんとなくすきだった)、
玉三郎さんが何度も何度も踊りの中でお着物の袖の藤柄を美しく見せてくれるもんだから、
なんて奥深い花なんだろう!と、もう虜。
今年は唐津城の藤棚でも見に行こうかなとか思っちゃったりして。

後半は、玉三郎さんの代表作「鷺娘」。
こちらは見ることができなかったのですが、
藤娘とは一転、感情の吐露を感じさせる舞台で、
もう、本当に素晴らしかったそう!(ご一緒していた派遣社員の方談)
羨ましい!
道成寺も見たいし、鷺娘も今度は是非とも見たいところ。
古典芸能はやっぱり素晴らしいです・・・。
これだけ残り続けていた力が確実に感じられますもん。
今後も、力の限り、足繁く通いたいと思いました。
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by chihiro_1984_20xx | 2006-03-23 23:03 | 芸術(舞台・絵画など)

浪人街

浪人街
/ ポニーキャニオン
ISBN : B00068D9GS
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唐沢寿明さんが非常に非常にかっこよかったです。
伊原剛志さんも非常にかっこよかったです。
中村獅童さんは舞台映えしていて素敵でした。
松たか子さんは美人すぎでした。


これ、かなりお勧めです!
正直、最後のほうを泥酔していて覚えていなかったので、さっき見直しましたが、
号泣、号泣。感動です。

浪人って、何も縛られるものがないけど、だからこそ大切なものが見えるんだろうな。

クライマックスは非常に長い殺陣シーンなのですが、
その場面ではもう、誰がどういう状況で戦っているとか、
何のために戦っているとか、そんなことどうでも良くなって、
舞台の上に、たった一つの崇高な魂が燃え盛って浮かんでいるようにしか見えなくって、
ただただ、感動するしかありませんでした。

ストーリーはテンポがよく、おもしろいし、オチもちゃんとついてる。
泣かせるところは泣かせる。笑わせるところは笑わせる。
だから最後はハッピーになれる。すごいです。これしか言えない。

あと、やっぱりカーテンコールが私は大すきです。
敵も味方もエキストラもすべての人が、その一日の舞台を終えて、
拍手喝采の中で、ただ一人の人として出てくる。憑物が落ちたような顔をしている。
それが、堪らなくすきです。

ふと、今日思ったのは、
私はお葬式をもし挙げてもらえるのなら、
参列者から拍手がもらえるようなお葬式にしてもらいたいなぁってこと。
今までの人生に対して、拍手で送られたいなぁって思いました。
その為にも、自分自身の人生という舞台を駆け抜けなくてはならないなと、思ったわけです。

弱くてもいい。強くてもいい。死にたいと思う日があってもいい。
落ちぶれてもいい。失敗してもいい。そんなことは関係ない。
でも、絶対に死なずに、私は、私の人生をやり遂げないといけない。
そう思ったのでした。


音楽、坂本龍一さん、
衣装、ワダエミさん。

最強です!

ワダエミさんのご衣裳は、オイディプス王の時といい、
洗練、斬新、かつ、舞台をより一層映えさせる天才的なものだと溜息が出てしまいます。
血とか、水とかそういった小道具類が映えるのも
恐らく舞台を知り尽くした上で衣装を考案されるからなのでしょう。
松さんが着てた衣装ももちろん素敵だったのですが、それ以上に、
唐沢さん、伊原さん、獅童さんが着ていた浪人の衣装が、
じわじわと血に染まっていく様子が、非常に舞台映えしていてすばらしかったです。
衣装だけのために見るって言うのもお勧めです。

ワダエミさんのブログもよろしければ(ここの所更新されてないようですが^^;)


あぁ、本当に私は舞台に魅了されてるなぁ。
だって、すきなのに理由がないんだもん。無条件降伏。
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by chihiro_1984_20xx | 2006-03-15 14:32 | 芸術(舞台・絵画など)